オリジナルアニメ黄金期の雄、中野に来る!!-山本 優ロングインタビュー

カテゴリー4[70’sパーソンズ]

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-優さんが大活躍していた頃(70年代後半~)のアニメといえば、オリジナルの作品が多かったですよね。

うん、オリジナル作品全盛期と言えるね。俺がはじめて一から手掛けたのは『ブロッカー軍団Ⅳマシーンブラスター』だったんだけど、あのときはタツノコから独立した連中が旗揚げして「葦プロ」注4を作った直後だったんだ。でも、まだ文芸部がなくて、設定やキャラは出来たんだけど、ストーリーをしっかり作れる人間がいないと話を回せないなってことになって、俺に白羽の矢が立ったんだよ。でも、当時はタツノコの作品もいくつもやってたんで、義理もあって大っぴらにできないから、半分シャレで仮のペンネームを作ってさ。「八田朗(やったろう)」が脚本で、「八田礼(やったれい)」がシリーズ構成。どっちも俺だけどな(笑)。

でも、そのときに「シリーズ構成」という肩書で出たんだけど、アニメ界で「シリーズ構成」という役割が登場したのは、実はあれが初めてだったんだ。

主題歌(作曲:小林亜星)の作詞もやって、そのペンネームが「とくら清和」。これは当時、俺が住んでたのが国分寺の戸倉町にあった「清和荘」ってアパートだったから(笑)

そんな風に、何でも自分で自由に創れるオリジナル作品も楽しいと思うようになってね。アフレコにも必ず立会うようにしてたんだよ。

脚本家が立会うようになったのも、俺が業界で初めてだったんじゃないかな。主役が安原義人さんで、相方のビリー役が津嘉山正種さん。今思うとすごい配役だよな。
それで、あとで「ガンダム」でもやるんだけど、主要人物を殺すと視聴率が上がるってことに気付いてね。真っ先にセミレギュラーの悪役を殺しちゃったら演じてた声優さんが「俺、死ぬんですかぁ!?」なんてショックを受けてたよ(笑)。
そんなことがきっかけで、アフレコを見て、その感じを活かしながらキャラを動かしてゆく作法を思いついたんだ。本当に役に立ったのは、もっと後になってだけど。

 

-当時はなぜオリジナル作品があれほど多かったのでしょう?

あのころは、スポンサーが決まってるけど中身がまだ無いっていうケースがよくあったんだよ。このスポンサーというのはだいたい玩具メーカーなんだけど、そういう形が多くて、オリジナル作品が作りやすかった。

葦プロの2作目が『女王陛下のプティ・アンジェ』。あれも俺のオリジナルで、一から作った作品。キャラクターデザインが、当時で言う「ロリコンキャラ」風だったんだけど、それを見た吾妻ひでおさん注5がハマっちゃってね(笑)。そんなこともあった。

そのあとは『くじらのホセフィーナ』。これはスペインを代表する童話文学の原作(J・M・サンチェス・シルバ作「さよならホセフィーナ」)があったんだけど、このときは物語の舞台を描くためにスペインまで取材に行ったんだけど、そのときに向こうのテレビで『マジンガーZ』をやってたんだ。当時は驚いたね。

そのころだったかな、その以前に俺が『勇者ライディーン』をやったサンライズから「久しぶりに戻ってこいよ」って話が来て、それが「ガンダム」だったんだよ。

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